『2006ワールドベースボールクラシック・準決勝〜アメリカ 韓国×日本』
勝敗の確率は五分五分だろうと思った。前半の拙攻を見て「あーまたこの流れか」と嫌な予感が頭をもたげたが、打線は水ものとはよく言った。なかなか火がつかないが、1度火がつけばあんなもんなんだな。次も小雨が降ってくれんかね(そういう意味じゃないだろ水ものって)。
しかしイチローは3安打という以上に、ここは絶対打たなきゃ格好がつかないというところできっちりタイムリーを放ってみせるのはさすが。
決勝のキューバ戦は・・・やっぱ五分五分だなあ。やってみるまでわからん。
【コボちゃん】
ナイスボール!!
【死亡】
なし。
【今日の運勢】
6月生は《周囲の雑音に惑わされない。初心に従い後悔なし。筆記用具吉》とのこと。
【J1】
サンフレ、ホームでレッズに1−4と完敗。引き分けをはさんでまだ勝ち星なし。あーもう。
昨季の優勝を争ったセレッソは3連敗。どうしたんでしょ。
【本よみうり堂】
ここの書評は、あんまりほめたくない本でもなんとなく事勿れに済ますのが通例だが、本田由紀/内藤朝雄/後藤和智著『「ニート」って言うな!』を取り上げた高橋秀実(ノンフィクション作家)の書評は、珍しく本の内容に異論を唱える結びにしてある。たいていは起承転結の「転」で異議を唱えておいて、「結」でまるくおさめるような書き方が多いんですけどね。
《言葉のひとり歩き。流行語の「ニート」もそのひとつといえるだろう》
《本書はこうした「ニート」の濫用を痛烈に批判する。若者を一括りにするな。若年雇用の低迷を覆い隠し、彼らの内面のせいにするなと。「『ニート』は、若者全般に対する違和感や不安をおどろおどろしく煽り立てるための、格好の言葉として用いられる」》
という本の内容にたいして、評者は、
《あらためて本書を読み返してみると、「若者に対する憎悪」より、著者たちの「ニートデマゴーグ」への憎悪のほうが辛辣である。「ニート」に対抗して「不活発層」という括りも提案しており、これもまた大学内の言説市場における憎悪の再生産に思える》
と感想を述べ、次のように結んでいる。
《誤った概念を潰したいなら、「言うな!」と制するより、言いまくって供給過剰にしたほうが無価値にできるのではあるまいか。みんなニートなら「ニート」はもう要らないのだから》
まあ、安易な若者批判への怒りもわからぬでもないし、怒りをあらわにするより戦略を用いたほうがいいのではないかとの考えも場合によってはわからぬでもないが、どっちも物足りないものを感じるなあ。対象(世にはびこる「若者批判」言説)の底の浅さにひきずられて、それへのカウンター戦術も浅くなってしまっている感じ。
私もたまにこのブログで、新聞が安易な若者批判を書いているのへ、くだらんことを書くなという反応をちょこちょこ示したりするが、反応するのはそれが「若者批判」だからではなく「安易」だからだ(このブログは新聞を読んだ感想を書くのが建前なので、具体的に目の前にある「くだらぬ記事」「すぐれた記事」「個人的に興味をひいた記事」には反応するが、「若者」だの何だのをめぐる一般議論はひとまず知ったことではない)。読売新聞にくだらぬ若者批判文章が多いのは事実だが、私はべつに読売新聞の敵でも味方でもない。若者批判であれ何であれ、くだらぬ記事にはくだらないと言い、良い記事には良いと言うだけ。むしろ、くだらぬ○○批判が目につくという事実をもってして読売全体を否定するような態度はとるまいと思っている。そんなことをしたら自分が「安易な○○批判」の書き手と同じになってしまいますからね。
「言葉のひとり歩き」というのは「ニート」や若者批判の言葉に限ったものではなく、最近始まったことでもない。よって、最近の若者批判言説だけを解体批判してみせたところでせいぜい、うまくいったとしても局所的な当面の成果しか得られず、大局的には何も変わるまい(局所的な成果だけが目的ならそれでもいいが)。それと同様に、「供給過剰」戦略で当面の流行語を死語化したところで、別の新しい流行語が次々に取って代わるだけで状況は何も変わらない(どころか、流行語サイクルの維持に貢献してしまう)。
ではどうすればいいのかというと、もちろんそんなことはわからない。「言葉のひとり歩き」の問題は人の数と情報伝達があるかぎりついて回るもので、一部の人だけが問題の本質を自覚したってどうにもならない。といって、すべての人が同じように問題を自覚するのは無理な話。責任ある立場の人が不正確だったり安易だったりする言葉を用いるのはけしからんが、そうでない何千〜何万〜何億の人が無責任な言葉をまきちらすのは、誰にもどうしようもない。そんなわけで、この問題は大衆ジャーナリズムが生まれた日から今日までずっと難問であり続けている。
それぐらい根の深い難問なのだから、「言うな」とか「逆に、言いまくれ」とかいった戦術で済んでしまうかのようなふるまいは、スパンの捉え方が小手先的にすぎて物足りないと思うわけです。


